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- 池田晶子「あたりまえなことばかり」
答えがないんですけれども、人はどういうわけか言語を所有するために、存在するしかない存在について意味や目的を問うてしまう、問いようがないとわかっていて問うてしまう。それは言語のせいです。動物は決して問いません、なぜ自分が生きているのか。彼らは言語を所有していないからです。生まれたから生きている、それだけ。その意味では彼らは十全の生を生きていると言えるわけで、我々は言語をもってしまったために、問えない問いを問う不幸、十全に生きられない。けれどもしょうがないんです、問いをもっちゃったかぎりは。問うしかないんだから、問わざるをえない。「何のために生きるのか」。
デカルトは、発見した事実を報告しているのであって、何らかの思想や学説を述べているのではないのだが、この絶対的事実の絶対性を発見していない精神にとっては、それは何らかの思想か学説を述べているように聞こえる。これが、今日にまで続く通俗的なデカルト理解、「デカルト的な近代的個人」というあの常套句である。デカルトは、「私」が絶対確実であると述べたのであって、デカルトという個人がそうであると述べたのではない。身体に代表される個人性は、疑うことができることにおいて確実ではないからである。しかし、「私」とは身体に代表されるこの個人のことであると、すでにあらかじめ思い込み、疑うことをしていない人々にとって、「私」の確実性など、強弁であろう。彼ら自身が、その確実性を捉えていないのだからである。
考えれば考えるほど、自分とは何であるのかわからないというのはまったく本当なのである。それは、捉えようとするほど捉え損ねるというネガティブな意味では決してない。自分とは何であるのかは決してわからないということが、はっきりとわかっているからこそ、そのわからなさをわからなさとして楽しむことができるのである。複数の自己が居る、あるいは自己とは重層的もしくは流動的なものである。このように了解して存在することは、きわめて自由な心地ではなかろうか。
古代人たちは、憑かれた人々を導く神を、「ダイモーン」と呼んだ。天才とは、文字通り「デーモニッシュ」な人々のことだ。彼らは、魂の奥深いところで、自分がこうとしかできないことの理由は、何がしか自分とは違うところから来ることを知っている。それをするのでなければ生きている理由がないのだから、死と引き換えにしても彼らはその生を選ぶだろう。選択の余地のない宿命を生きるということは、したがって、この世的な幸福と不幸では計れない。
- 井筒俊彦「意識と本質」
同じく経験界における「本質」の虚妄性を認めるところから出発しながら、不二一元論ヴェーダーンタはこうして大乗仏教とは正反対のテーゼに到達する。すなわち、仏教が現象的無に始まる「本質」の無性を最後の最後まで追いつめていって、ついに形而上学的絶対無に終着するのに反して、不二一元論は「本質」の現象的無性を窮極まで追って、ついに形而上学的絶対有に終着するのである。一方は無、他方は有。だが両方ともに絶対無文節であることはかわらない。ここに、絶対無文節的無と絶対無文節的有とが鋭く対立し、それに基いて、性格を異にする二つの存在論が成立する。
言語的意識の極北。凍てつく冷気の中で、コトバは空しい戦慄となって沈黙のうちに沈みこもうとし、親しげな眼差しの日常的事物はことごとく自らを無化して消滅する。虚無。一八六六年三月、カザリス宛の手紙でマラルメは、「仏教を知ることなしに、私は虚無に到達した」と書いている。そして、この底知れぬ深淵が私を絶望に曵きずりこむ、とも。マラルメのこの万物無化の体験に、何か精神錯乱の一歩手前といったものがあり、狂気の匂いが漂っていることは事実だ。だが、虚無が彼の辿りついた最後の地点ではなかった。虚無の絶望の後に開けてくる世界があった。早くも同じ一八六六年の七月、同じカザリスに宛て、「虚無を見出した後で、僕は美を見出した。----- 僕が今、どんな清澄の高みに踏みこんだか、君にはとても想像出来まい」と彼は書く。虚無体験には、思いもかけず、新しい存在肯定へ向っての窓が開いていたのだ。いかに非人間的な、奇怪な存在肯定で、それがあったにしても。「美」- 一切の経験的、現象的事物が夢まぼろしのごとく消え沈む虚無、「忘却」の向う側に、彼が見出したこの「美」こそ、彼にとって、普遍的「本質」永遠のイデア、の絶対美の実在領域だった。あらゆる生あるものの消滅する死の世界。だが、彼は歓喜した。常識的人間の目で見れば、死と絶滅以外の何ものでもありえないこの「美」の領域を、存在の永遠性の次元と彼は呼んだ。(オーバネル宛、一八六六年七月)。ここに至ってマラルメの詩的形而上学において、「偶然」という概念が決定的重要性を帯びてくる。永遠不易の「本質」の直視をさまたげる一切の現象的存在要素を、彼は「偶然」と呼ぶ。不断に動き変化して一瞬もとどまらぬ経験的事物のざわめき。この偶然性あるいは時間性の支配から存在者を救出することを、マラルメは詩人としての己れの使命とする。時間の支配を超脱した「本質」の実在性の次元に事物を昇華させることだ。その次元こそ絶対美の領域。だが、撩乱と花咲きみだれる現象的世界 ー マラルメのいわゆる「地上楽園」 ー に対比して、絶対美の世界は限りなく冷い。それは永遠的実在としての普遍的「本質」だけが棲むところ、冷くきらめく「純粋な星たち」の国、万物が無生命性の中に凍てつき結晶した氷の世界。しかし、経験的世界の流動する事物が、偶然性の桎梏を脱して、このような永遠不動の、「この上もなく純粋な氷河地帯」(カザリス宛、一八六六年)に踏み入るためには、当然、それらの事物は完全に死滅しなければならない。先に述べた存在無化に、たんなる仏教的 ー とマラルメが考えた ー 「虚無」だけにとどまらない或る積極的なものを認めえたことは、マラルメにとって絶望からの救いだった。経験的事物が残りなく「虚無」のうちに消滅し去ってこそ、その非存在の空無の彼方に、偶発性の要素の完全に取り払われた、純粋に光り輝く新しい姿で、それらの事物は立ち現れてくるのだ。執拗に自己を主張してやまぬ日常的事物、経験的世界を埋め尽くす無数の個物、の感覚的現実性が抹殺され、そこに成立する絶対的非現実性の空間に、「イジチュール」的「真夜中」の闇のさなかに、ある異次元の現実性が開顕する。永遠に変らぬ普遍的「本質」の現実性が。この形而上的錬金術をなしとげる詩人(コトバの芸術家)マラルメの言語は、もはや日常の、人々が伝達に使用する言語ではなくて、事物を経験的存在の次元で殺害して永遠の現実性の次元に移し、そこでその物の「本質」を実在的に呼び出す「絶対言語」なのである。勿論、それでもなお、事実上、詩人は普通の言語を使って詩作しなければならない。しかし彼は普通の言語を絶対言語的に使う。普通の言語を普通の仕方で使えば、事物の感覚的形姿が浮んでくる。例えば「花」という言葉。それの呼び出すものは、ごく平凡な、どこのどの花にでも無差別的に当てはまる一般的「本質」によって規定された感覚的花の形象にすぎない。マラルメのいわゆる存在の「輪廓」だ。存在の感覚的な「輪廓」は移ろい易い。花は咲いて、やがて萎む。だが、詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、そこにある異常なことが起るのだ。存在の日常的秩序の中に感覚的実体(「輪廓」)として現れていた花が、発音された語のひき起す幽かな空気の振動と化して消え散っていく。花の「輪廓」の消失とともに、花を見ている詩人の主体性も消失する。生の流れが停止し、あらゆるものの姿が消える。この死の空間の凝固の中で、一たん消えた花が、形而上的実在となって、忽然と、一瞬の稲妻に照明されて、白々と浮び上がってくるのだ。花、永遠の花、花の不易が。「私が花! と言う。すると、私の声が、いかなる輪廓をもその中に払拭しさって去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現れてくる」(「詩の危機」)、とマラルメは書いている。世の中のどの花束にも絶えて見当らぬ、つまりこの世のものならぬ、花のイデー。それこそ実在するものとして把握された花の普遍的「本質」だ。空間に充満してたゆたう音楽が、物質的事物の存在とは違った意味で、違った次元で、確かに存在するといわれるような意味で、花の「本質」は存在する。まさに「音楽的に」である。ここではもはやコトバは経験的事物の記号ではない。事物を指示するものではなくて、かえって事物を消し、事物を殺すもので、それはあるのだから。そして経験的事物を殺すことが、ただちに普遍的実在の生起なのである。存在のこのような形而上的高みに立って、「花」という一語を発音することは、マラルメにとって、神の宇宙創造にも比すべき一つの根源的創造行為だった。だが、それは同時に、事物不在によってひき起される極限的非人間性の鬼気迫る緊迫のうちに、マラルメが己れの詩の終焉を告げる華麗な、しかし限りなく悲しい、身振りでもあったのだ。
- イヨネスコ「ノート 反ノート -演劇論集-」大久保輝臣 訳
真実であるもの、あの本物の真理からくる真実性、それはとっぴで異常なように見えます。事実それは異常であって、虚偽の方こそ月並みです。あなたが誠実であるしるし、それはあなたが嘘つき扱いをされることであり、あなたが正直であればこそ道化者扱いをされるのです。あなたの叫び声が集団の精神的習慣を突き破るのですから。
建築家は寺院や宮殿や小さな家などを建てる。作曲家は交響曲を作曲する。建築家に言わせれば、これは信者にお祈りの場所を作ってやるためだ、王さまが貴顕紳士の賓客やたくさんの兵士たちを迎えられるように広々とした邸宅を作ってやるためだ、農民が家畜や家族といっしょに住めるような場所を作ってやるためだというわけです。ところが建築家はみごとにしてやられます。信者たちは死んでしまうし、宗教もすたれる。だが寺院はすたれないで相変わらず立っている。そして人びとは世代から世代へと使いものにならなくなったこの寺院を、人気のないこの宮殿を、あるものといえば家具や思い出くらいしかない絵のようなこの昔の家を、見にやってきては感心するのです。交響曲のほうはどうかと言うと、なによりもまして音楽好きを夢中にさせるのはその曲が作曲された手法そのものであって、作曲家の些細な感情などはその死とともに死んでしまっているのです。こうなるともう建築物も交響曲も、建築の法則や音楽というあの動く建築を支配する原則を明らかにするものにほかなりません。建築物も交響曲もそれ自体に戻されて、その本質を純粋に示すものとなるのです。
子供が生まれたがる様に、芸術作品も生まれたがります。芸術作品は魂の奥底から湧き出てきます。なるほど社会は子供を横取りしてしまいますが、それにしても子供は社会のために生まれるのではありません。子供は生まれるために生まれるのです。同様に芸術作品も生まれるために生まれる、作品は作者に自分を押しつけ、存在したいと要求するのであって、社会が自分を呼んだのかどうかなどとは思ってもみないし、考慮にも入れません。子供の場合と同様に、社会が芸術作品を横取りしてしまうことはもちろんですが、作品のほうも社会を利用できるのですし、社会を糾弾したり破壊したりすることもできるのです。作品は社会的機能を果たすこともありますし、果たさないこともありますが、けっして社会的機能そのものであることはない。作品の本質は超社会的なのです。
言葉がいまだかつて意味しなかったことを、その言葉に言わせること。
ところでこれは異常に見えるかもしれませんが、わずか数人の良心的な個人が歴史に対抗して、真理を代表しているということはおおいにありうることなのです。現に歴史という神話がありますが、流行語ですからそれを使うと、いまやその<欺瞞を覚醒>すべき重大な時期にさしかかったと言えそうですね。世間一般の流れに抗して、普遍的な良心を代表してきたものは、常に孤立した数人の良心でした。革命家自身にしたところが、その出発点では孤立していたのであって、そのためにかえって気がとがめるか、自分は果たしてまちがっているのか正しいのかわからないほどだったのです。たったひとりで続けて行くだけの勇気をどうして彼らが自己の内部に見いだしえたのか、わたしにはどうしてもわからないくらいです。彼らは英雄です。しかし、彼らがそのために自己の生命をなげうった真理が公式の真理になってしまうと、もはや英雄は存在せず、存在するのはただ用心深くて臆病な、仕事向きの役人どもだけになります。
わたしは画一主義を破壊したがそれにかわるものを見つけなかったので、その批評家と観客を空白のなかに置き去りにしたと不満を述べている。だがそれこそわたしが作り出そうとしたものなのだ。自由な人間はたったひとりで、他人の力を借りずに、自力でその空白から脱出すべきなのである。
- 岡本太郎 「呪術誕生」
今までそれなしには「すぐれた芸術」とはいえないとされていた絶対の条件がなにひとつなくて、しかも見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、その人の生活自体を変えてしまうほどの力をもったもの、ー私はこれこそ、ほんとうの芸術だと思うのです。
渾沌を秘めていない芸術なんてあり得ない。絵画、音楽、文学それらのあらゆる感動的傑作を考えてみるがいい。人間本来の渾沌がいかになまなましくうち出されているか。その上に、普遍的な合理性が対立的に秩序づけられて、あやしいまでの魅力になっているのだ。永遠の矛盾を秘めたあやしいハーモニーである。
- 和尚「黄金の華の秘密」
真理は不変であり、異なるのは表現だけだ。
いいかね、宗教的な人間にとって最大の課題は深刻になり過ぎないことだ。宗教的な人間にとって最大の課題は悲しまないことだ。宗教的な人間にとって最大の課題は否定的にならないことだ。なぜなら、ふつうはそうなってしまうからだーーー宗教的な人間は悲しみに沈み、ひどく深刻になり、生に対して否定的になる。彼らは春のことをすっかり忘れてしまう。彼らは枯れ木や冷たい灰のことばかり考える。彼らはバランスを失っている。ときには大地が明るい春を迎えている姿を想起しなければならない。真に宗教的な人間はユーモアの感覚をもち合わせている。真に宗教的な人間は誠実ではあるが、けっして深刻ではない。為すべきことに完全に身を捧げているが、けっして「俺のほうがおまえより高潔だ」といった態度は取らない、絶対に取らない。けっして優越感にひたることはなく、謙虚だ。真に宗教的な人間は雨や風とともに踊ることができる。子供たちと一緒に微笑み、笑うことができる。生のあらゆる状況にくつろぐことができる。それが自由だ、それは自我からの自由だ。自我は人を深刻にする。
- カッシーラー「人間 -シンボルを操るもの-」宮城音弥 訳
我々が宗教から受け取る唯一の答は、自己を隠していることが神の意思であるということである。「かくて、神は隠されているゆえに『神が隠されている』といわない宗教は真実ではない。また、このために理性を与えない宗教は教訓的ではない。我々の宗教はすべてこれをなすーーまことに、汝は隠されたる神なり......。なぜならば、自然は各所に、人間においても、人間以外のものにおいても、失われた神を示すようなものである」。それゆえに、宗教はいわば背理の論理である。なぜならば、ただ、このようにして人間の背理、内的矛盾、奇妙な存在をつかむことができる。「たしかにこの説以上に荒々しく我々を打つものはない。だが、この、あらゆるもののうちで最も了解不能な神秘がなければ、我々は我々自身にとって了解不能なのである」。
命題言語(propositional language)と情動言語(emotional language)の間の差異は、人間世界と動物世界の間の真の境界である。
- クラーゲス 「リズムの本質」杉浦実 訳
事物ははじめて知覚されるとき新奇性を持つ。しかし、二度目には、その事物を再認することを可能にする既知性を持つ。まったく短期間のうちに百度目の知覚がなされるとき、事物は習慣性を得て、もはやわたしの注意をひかないという事態になる。なぜなら、それと同時に、世界現象に関するわたしの体験からなにかが滑り落ちたからである。現象の世界はそれゆえはてしなく続く変化と逃亡のなかにあり、一方、事物の世界はいわば無時間的、固着的である。
- K ウィルバー「構造としての神」井上章子 訳
控え目にいって、われわれが分析するのには次の諸レベルが含まれる。(1)物質交換の身体的レベル その範型は食物の消費と自然環境からの食物の採取であり、そしてこの圏は手(枝)の労働であって、ここでの分析家の原型はマルクスである。(2)生気(活力)の交換という情動的レベル その範型は呼吸と性でありこの圏は情動の交わりであって、感情から性へ、そこから権力に及び、ここでの分析家の原型はフロイトである。(3)記号交換の心的レベル その範型は談話(言語)であり、この圏はコミュニケーションであり、分析家の原型はソクラテスである。(4)直感的交換の心魂的レベル その範型はシッディ(心魂的洞察およびヴィジョン論理一般)、その圏はヨガの軍茶利尼、この分析家の原型はパタンジャリ。(5)神 / 光交換の精妙レベル 範型は声 / 黙示と精妙的照明(有分別三味)、その圏は聖人的「天国」(ブラフマ / 世界、ひと自身の複合的個体のうちの高次構造の潜勢体)、原型たる分析家は、モーゼ、聖パウロ、キルパル シンフ。(6)無限交換の因果レベル その範型は「非創造者のうちの、またそれとしての、根底的な融解(無分別、倶生、三味)、その圏は覚者的神性、その原型たる分析家は仏陀、クリシュナ、キリストである。
- 近藤譲「音楽という謎」
民族音楽学者のアランメリアムは、今や古典的な著書となった「音楽人類学」で、音楽が持つ十の(社会的な性質を持つ)機能を数え上げ、その中の一つに、「社会を統合する機能」を挙げている。この「社会統合」のほかに、彼が挙げた九つの機能は、「感情表現」、「美的体験を与える」、「娯楽」、「伝達」、「象徴表現」、「肉体的反応の喚起」、「社会規範への従順を促す」、「社会制度や宗教儀式の妥当性(有効性)を確認させる」、「文化の存続と安定への寄与」である。
- 郷 尚文「覚醒の舞踏」
人間を創造した力は、人間に多大な可能性を与えたが、その可能性を成就する仕事は人間に任せた。
グルジェフの関心は、答えを与える事よりも、探求の原動力となるような、切実な疑問を呼び覚ます事にあった。
- 下村寅太郎「レオナルドダヴィンチ」
(一)言語を理性が固定し確定的な形式の下に言語を構成する、即ち言語に補強工作を施し言語を再築する方向
(二)言語の此方において探求し発生状態にある内的形態即ち直感を観察する方法
(一)は建築家的な哲学者 (二)は音楽家的な哲学者 といい得る。
- シラー「美的教養論」 清水清 訳
私は正規な学術的論法を用いることにはあまり慣れて居りませんが、それだけ却つて、それを濫用して純粋な趣味を傷けるというような危険はないものと確信して居ります。私の思想は、豊かな人生経験や沢山の読書を通して得たものというよりは、むしろひたすら自分独りへ沈潜して得たものでありまして、そうしたお里を私の思想は偽りなくさらけ出すでありましょう。従つて、それはたとえどのような誤りを犯すことがありましても、決して流派思想に陥るというようなことだけはないものと思つて居ります。また、権威や他人の力によつて支えられるくらいなら、私の思想はむしろ喜んで己れの脆さの故に倒れることを望むでありましよう。
分析を事とする化学者と同じく、哲学者もまた分解をもつてのみ始めて結合を知り、芸術を拷問にかけて見てこそ始めてそれが自由意志的本性の作品であることを見出すのです。移ろい易い現象を引き捕えるためには哲学者はそれらの現象を規則の鎖に縛りつけ、その美しい身体をいろいろな概念に切り刻み、そして活きた精神を貧しい言葉の骨組のうちに保存するようにしなければなりません。かような概念的模像のうちには自然的感情などはもはや見るに由もなく、また真理が解剖学者の報告のうちに一つの逆説として現れて来るとしても、何の不思議がありましょうか。
時勢の流れは時代の天才を理想の芸術から益々遠ざかるような方向へ動かして来ました。この理想の芸術は、現実を見棄てて毅然たる態度をもって現実の必要を超越しなければならないのです。というのは、芸術は自由の娘であって、物質の必要からでなく、精神の必然からその指令を受けようとするものであるからです。ところが今日は、ただ必要が勢力をふるっていて、低下した人類をその暴虐な桎梏の下に抑えつけているのです。効用というものが時代の大きな偶像であって、凡ての力はそれに盲従し、凡ての才能はそれに臣事せざるを得ないように考えられています。この粗雑な秤にかけられては、芸術の精神的功績のごときは何の重みも有ちません、そして鼓舞の力というようなものは一切奪い取られて、芸術はこの世紀の騒然たる市場から姿を消して行くのです。哲学的の研究精神までが想像力の領分を次々と剝ぎとって行き、そして芸術の境界は、学問がその限界を拡げれば拡げるほど、ますます狭まって行くのです。
人間は何れの個人も、その素質と使命とから見て、一の純粋なる理想的人間を内に抱いているものであるということが出来ます。そして、その凡ゆる変転のうちにあってこの理想的人間の不変の統一体と合致すること、これが人間存在の偉大な課題なのです。この純粋人は、明瞭不明瞭の相違はあっても、凡ゆる主体のうちに認められるものですが、これを代表するものは国家であります。即ち、凡ゆる主体の雑多がそこで互いに合一しようと努めるところの客観的な、言わば基準的な形式としての国家なのです。さて併し、時間のうちにある人間が如何にして理念のうちにある人間と合致することが出来るか、同様にまた、国家が如何にして個々人のうちに自らを主張し得るか、そこには相異なった二つの方法が考えられます、ーーー 一つには、純粋人が経験人を圧迫すること、国家が個人を破棄することによってか、二つには個人が国家と成ること、時間のうちにある人間が理念のうちにある人間にまで自分を高めて行くことによってか、その何れかの方法によるのであります。
人間はすでに自分自身と二重の仕方で対立している場合があります、ーー即ち感情が原則を支配する場合の野蛮人としてか、または、原則が感情を破壊する場合の未開人としてかであります。野蛮な人は芸術を軽蔑し、そして自然を自分の絶対的な命令者であると見るのに対し、未開な人は自然を嘲笑してこれを辱めますが、野蛮な人よりも一層下劣なことには、しばしば自分の奴隷の奴隷であることを続けて一向に平気でいるのです。然るに、教養ある人間は自然を己れの友となし、そしてただ自然の恣意を抑制するだけで、その自由を尊重するのであります。かようにして、理性はその道徳的統一を物理的社会のうちへもたらそうとするとき、決して自然の多様性を傷つけるようなことがあってはなりません。また、自然がその多様性を社会の道徳的構造のうちで主張しようとするとき、それによって道徳的統一に何かの破綻でも起るようなことがあってはならないのです。単調と混乱から等距離のところに、勝利の形式はあるのです。
- S ソンタグ「反解釈」 高橋康也 ほか訳
芸術作品がなしうることは、われわれに判断させ、一般化させることではなくて、何か特別なものを見させ把握させることである。この官能性が伴った把握の行為は芸術作品の唯一の有効な目標であり、唯一の完全な正当化である。
- ニーチェ「ツァラトゥストラ」 手塚富雄 訳
かれの欲求が満ち足りて沈黙すべきだ、とわたしは言っているのではない、そうではなくて、美の世界にひたってかれの欲求が沈黙するのでなければならない。
- 蓮實重彦「批評 あるいは仮死の祭典」
フーコー ところでこれは、かなり興味深い現象なのですが、彼らは奇妙な矛盾の中に捉われています。一方で、彼らは、マルクス主義を一つの科学だという。わたしにとっては、というのはきっとわたしが幾分か科学史家といった面を持っているからかも知れませんが、マルクス主義が科学だというのはあまり讃辞のようには響かない。一つのタイプのディスクールを科学というのは、いったいどういうことか。一つのディスクールを、これは科学的ディスクールだということによって、一つのタイプのディスクールを神聖視したり、またその価値を確かなものと保証することはありえないと思っているのです。科学的ディスクールというものは、わたしの考えによれば、こんにち、しかるべき特徴によってそれを性格づけうるものです。そしてそうした特徴のうちには、次のような重要な点が含まれている。すなわち、一つの科学、学問領域がその創始者を必ず持っているのは確かだとしても、その科学の歴史的な発展が、いかなる場合であれ、この創始者のテキストのたんなる解釈で終わることは絶対にありえない。物理学がガリレイによって創始されたのが事実だとしても、ガリレイがいかなる点まで到達しえて、またいかなる点にも到達しえなかったかを示しうるのは、まさにその物理学の科学性によってではなかったか。つまり、物理学の科学性それ自体が、ガリレイの誤りを指摘しうるのです。ニュートンについても、キュヴィエについても、ダーウィンについても事情に変わりはありません。したがって、もしかりに、ある種のマルクス主義者が、マルクス主義を科学だと主張するのが確かであるなら、その人たちは、その科学の名において、またその科学を出発点として、いかなる領域においてマルクスが間違っていたかを知る必要がある。そこで、マルクス主義は科学だというマルクス主義者に向かって、わたしは、あなたがマルクス主義の科学性によってマルクスの誤りを示したその日になって、はじめて、なるほどあなたは科学としてのマルクス主義を実践しておられるのがわかったということになるでしょう。
- ハンス リヒター「ダダ―芸術と反芸術」 針生一郎 訳
陳腐さに対する陽気な侮辱
バルの意味にたいする不屈の探求は、時代の無意味とは対照的かもしれないが、疑いの余地がない。かれは懐疑にみちた理想主義者であって、外界にたいするきわめて深い懐疑の念にもかかわらず、その生命への信仰は失われることはなかった。
- 藤原基央 「グングニル」
そいつは酷い どこまでも胡散臭くて安っぽい宝の地図 でも人によっちゃそれ自体が宝物 「こいつは凄い財宝の在り処なんだ」 信じきった彼もとうとうその真理を確かめる旅に出るとする 誰もが口々に彼を罵った 「デタラメの地図に眼が眩んでる」って 容易く人一人を値踏みしやがって 世界の神ですら彼を笑う権利なんて持たないのに そいつは酷い出来映えだがこつこつ地道に作り上げた自前の船 彼にとっちゃ記念すべき最初の武器 荷物を積み別れを告げ朝焼けの海に帆を張った 堪え切れず掲げた拳 響き渡る閧の声 そいつは酷い どこまでも胡散臭くて安っぽい宝の地図 でも誰にだってそれ自体が宝物 ホントにでかい誰もが耳疑うような夢物語でも信じきった人によっちゃ自伝に成り得るだろう 誰もが遠ざかる船を呪い出した 「願わくば高波よ悪魔となれ」 容易く覚悟の前に立ちはだかりやがって 夢の終わりは彼が拳を下げた時だけ 死に際の騎士 その手にグングニル 狙ったモノは必ず貫く 誰もがその手を気付けば振っていた 黄金の海原を走る船に向けて 自らその手で破り捨てた地図の切れ端を探して拾い集め出した 容易く自分自身を値踏みしやがって 世界の神ですら君を笑おうとも俺は決して笑わない 船は今嵐の真ん中で 世界の神ですらそれを救う権利を欲しがるのに
- フーゴ バル「時代からの逃走 -ダダ創立者の日記-」 土肥美夫 / 近藤公一 共訳
精神の世界から、ほんの軽微な抑圧にも反応する生きた有機体をつくること。
一九一〇年から一九一四年まで、わたしにとっては一切が演劇だった。生活も、人間たちも、恋愛も、モラルも。
これらの画家は、「先ず見よ、しかる後思索せよ」という命題を絵で示していた。そこでは、知性の回り道を経ないで、生命の全体的な表現が達成されていた。知性は呪わしい世界としてしめ出されたのだ。天国のような風景が絵に現れていた。その画像には額縁をうち破ろうとする力がみちあふれていた。動的な生命力はそれほど強力だったのだ。偉大なものの前兆が現れてきているようにみえた。悦ばしい幻視の表現がその力強さのしるしと認められた。絵画はそれにふさわしい仕方で神の子をもう一度生もうとしているようにみえた。絵画が数世紀にわたって母と子の神話の前に跪いていたことは、無駄ではなかったのだ。
ハウゼンシュタインが、「芸術家でない者にとっては、ゆがんだフォルムがいつも芸術家たる者の最高の本性だったが、芸術家自身はそのようなゆがみとその不気味さにおびえているのだ」と書くたびに、われわれはカリカチュアやデーモンのような不吉なものを身をもって体験していた。
次のことだけははっきりしている。つまり、根っ子がコチコチに固まって乾涸びてしまった人間、もはや移ることも、変わることもできない人間は、思想をもち、生産的になることをやめているのだ。
精神の深い関心事は、群衆ではなく、形態である。しかし形態は群衆に浸透しようとする。
群衆の叛乱よりは、唯物論哲学の叛乱のほうが不可避である。
誘惑を知り、また抵抗も知って、徹底的に確かめられた思想だけ、実際に生かされ、具体化される思想だけ、真の意味で存在するのはそういう思想だけだ。
個性の大きさを、現実的な、ましてまた可能性をもった個性の大きさを、鋭く洞察できるようにすること。
わたしの思想は矛盾対立しながら動いている。まさにこの言葉で、あらゆる思想は矛盾対立しながら動いているのだ、とそう言いたかったのだが、しかしいまは、それとは別の可能性があることがわかった、つまり、突き抜けるという思想だ。最高の存在への萌芽はどんな人間にもひそんでいる。問題は、ただ、人間を閉じ込め、窒息させている周囲の壁をとりこわさないで、なお最高の存在のひらめきにまで突き抜けられるかどうか、ということだ。社会学的にみると、人間というものは固い殻をかぶって形作られている。外殻をこわせば、おそらく中身もこわすことになるだろう。
直観、聴覚、臭覚、視覚、味覚、触覚。これらは生々しい六つのいとうべき感覚である(したがって直観もそのなかにはいっている)。
ランタンで人間を探求したあの哲学者は、今日のわれわれにくらべてずっとましだった。彼のランタンを吹き消したり、彼自身の光を消してしまうような者はいなかった。当時の人には、彼にそのような探求をさせるだけの機智に富んだ人のよさがあったのだ。
冒険家はつねにディレッタントである。彼は、偶然に期待をかけ、自分の力を信頼している。彼が求めているのは、認識ではなく、自己の優越性の確証である。気分が高ぶれば、生命を賭けるが、しかしそれも切り抜けられると期待しているのだ。しかし好奇心の強い者、ダンディは、冒険家とはちがっている。ダンディもまた、危険を探し求める、しかし物好きで危険を求めるのではない。彼はそれを謎としてとらえ、それを解き明かそうと努める。体験から体験へと彼を導いているものは、気まぐれではなく、思想の一貫性であり、精神的事実の論理である。ダンディの冒険は時代の負担であるが、それに反して冒険家の体験は恣意にもとづいていて、自分自身の責任である。またこうもいえるだろう。冒険家は偶然のイデオロギーに支えられ、ダンディは運命のイデオロギーに支えられる、と。
不治の病を患い、合理主義で治療を受けている人びとの愚直さ。確かに、いまは大いなる時代だ。魂の医者にとって。
- マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」 清水一浩 訳
1 宇宙は物理学の対象領域である。
2 対象領域は数多く存在している
3 宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず(大きさの点で最も印象的な対象領域であるにしても)、したがって存在論的な限定領域にほかならない。
4 多くの対象領域は、話の領域でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。
5 世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とは、すべての領域の領域にほかならない。
- 吉本隆明「言語にとって美とはなにか 第1巻」
散文家が制約とみるかもしれない音数律が、歌人にはあらかじめ保証された無限の許可とみえることはありうる。
- リルケ「リルケ詩集」 富士川英朗 訳
もろもろの事物のうえに張られている成長する輪のなかで私は私の生を生きている たぶん私は最後の輪を完成することはないだろう でも私はそれを試みたいと思っている 私は神を 太古の塔をめぐりもう千年もめぐっているがまだ知らない 私が鷹なのか嵐なのかそれとも大いなる歌なのかを
私がその中から生まれてきた闇よ 私はお前を焔よりも愛する 焔は世界を限って或る範囲のためにだけかがやいているがその外では何ものも焔を知ってはいないのだ けれども闇はすべてを抱いている いろいろなものの姿や焔や動物や私を 闇は人々やもろもろの力を自分の中に引き入れている
彼等には異郷の国々の幻想もなく たれ落ちる衣裳のなかから踊る褐色の女たちの感情もない 野生の奇異なメロディもなく 血のなかから生まれでた歌も深い奥底から叫んだ血もない 熱帯の倦怠のなかで ビロードのように身を拡げた褐色の少女たちも 兇器のように燃え上った眼もない そして哄笑にひろがる口と 白人種の虚栄との奇妙な了解があるばかりだ 私にはそれを見るのがひどく不安だった おお なんと動物たちがはるかに誠実なことだろう 彼等は檻のなかを往ったり来たりしながら 自分たちに理解できない 新しい 奇異な物事の営みと馴れあうこともない そして彼等は沈黙の火のように静かに燃えつき 自分のなかへ沈んでゆく 新しい出来事になんの関心もなく 自分たちの偉大な血とともに孤りぼっちで
木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように 大空の遠い園生が枯れたように 木の葉は否定の身ぶりで落ちる そして夜夜には 重たい地球が あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる われわれはみんな落ちる この手も落ちる ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ けれども ただひとり この落下を 限りなくやさしく その両手に支えている者がある
音楽 彫像の吐息よ おそらくは 絵のもつしじま もろもろの言葉のおわるところで 始まる言葉よ 私たちの 消えてゆく心の方向のうえに垂直に立っている時間よ お前は誰に向って動く感情なのか? ああ お前は感情の何に移りかわる変化であろう?ー耳に聞こえる風景に。 音楽 見知らぬものよ 私たちからはみだした 心の空間 私たちの最も内からのものでありながら 私たちを乗り越えて あふれでるものよー神聖な別離よ いま 私たちの内部が私たちを取り巻いている 見事な遠景のように 空気の 裏側のように 浄らかに 巨大に もはや私たちが住むこともできず
すべての深い発見が 再び私を幼な児にした
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