2026/09. Fujiyoshida, Yamanashi JP
澁澤龍彦を読む - Reading Tatsuhiko Shibusawa
澁澤龍彦のホモエロティクスを読み出したのですが、この方、フランス文学?に深い造詣があり、非常に面白いですね。私もマラルメ、ヴァレリー、アルトーなどは非常に好きなので、精神分析・哲学も含めて強い興味が湧いてきました。
はい。澁澤龍彦は、Yuさんがマラルメ、ヴァレリー、アルトーに惹かれているなら、かなり危険なほど相性の良い入口だと思います。読み進めると、本棚がまた増殖します。人間はなぜ本棚だけは懲りずに増やすのでしょう。
澁澤は単に「フランス文学に詳しい人」というより、フランス文学・思想・性愛・精神分析・神秘思想・美術史を、日本語圏で独自の宇宙に組み替えた人と考えたほうが近いです。
特に重要なのは、彼の中心にマルキ・ド・サドがいることです。澁澤はサドの翻訳・紹介によって知られ、『悪徳の栄え』をめぐる猥褻文書裁判まで経験しています。ただ、彼がサドから取り出したものは単なる性的倒錯ではありません。
むしろ、
欲望とは何か
身体とは何か
規範とは何か
正常/異常とは誰が決めるのか
人間の想像力はどこまで社会秩序を侵犯できるのか
という問題です。
だから『ホモ・エロティクス』を読んでいて精神分析や哲学の匂いを感じるのは、かなり正しいと思います。
そしてYuさんの好きな作家たちとの関係を考えると、かなり面白い地図ができます。
マラルメ → 言語そのものの自律性・象徴・不在
ヴァレリー → 意識・知性・形式
アルトー → 身体・狂気・残酷・言語以前
サド → 欲望・侵犯・倫理
バタイユ → エロティシズム・死・聖性・侵犯
ブルトン → 無意識・夢・シュルレアリスム
フロイト → 欲動・抑圧・無意識
ラカン → 欲望・言語・主体
この辺りの巨大な交差点の、日本側に澁澤龍彦がいる、と考えると分かりやすいです。
しかも澁澤が面白いのは、これらを大学的な思想史として整理するというより、一種の「蒐集家」あるいは「錬金術師」のように扱うことです。
鉱物、宝石、球体、人形、機械、性愛、異端宗教、魔術、幻想文学、裸体、庭園、博物誌。
普通なら別々の棚に分類されるものを、「欲望」「美」「死」「変身」「人工性」みたいな地下水脈で繋いでしまう。
この態度は、Yuさんが音楽、建築、象徴、宗教、精神分析、アルトーなどを別々の専門分野としてではなく、かなり一つの問題系として見ている感覚にも近いところがあると思います。
アルトーとの違いも面白い
ただし、澁澤とアルトーはかなり違います。
アルトーは、いわば自分自身の身体を賭けて思想を生きてしまった人です。
言葉と身体の分裂そのものが耐え難い。だから文章が最終的には叫びや痙攣に近づいていく。
一方の澁澤はずっと冷静です。
狂気、倒錯、残酷、魔術を扱っていても、文章には妙な透明感と知的な距離がある。
極端に言えば、
アルトーは火の中に入ってしまう。
澁澤はその火を美しい標本箱に収める。
という違いがあります。
ここが面白い。
そしてその中間あたりにジョルジュ・バタイユがいる。
バタイユは非常にYuさん向きだと思います。
特に、
- 『エロティシズム』
- 『内的体験』
- 『呪われた部分』
- 『眼球譚』
あたり。
『ホモ・エロティクス』から入ったなら、まず『エロティシズム』はかなり直接的につながります。
バタイユにとってエロティシズムとは単なる性ではなく、
個体として分断された人間が、一瞬だけ自己の境界を失う経験
です。
そのため、
性愛
死
供犠
宗教
恍惚
暴力
が全部一つの構造として論じられる。
これはアルトーの「身体」や「残酷」ともかなり近づいてきます。
さらに精神分析へ進むなら、フロイトから一直線に読むより、
フロイト → ラカン → バタイユ/アルトー
という三角形で読むと相当面白いです。
ラカンの有名な、
「人間の欲望は他者の欲望である」
という問題に入ると、『ホモ・エロティクス』で扱われる性愛も急に違って見えてきます。
「自分は何を欲望しているのか」
だけではなく、
「そもそも、この欲望は誰のものなのか」
という問題になるからです。
そしてそこからマラルメへ戻ると、今度は「言葉を話している主体は誰なのか」という問題になってくる。
ここまで来ると、
性愛 → 欲望 → 無意識 → 言語 → 主体 → 不在
という一本の線ができる。
マラルメとラカンが意外なところで接続し始めます。
さらにアルトーは、その「言語によって構成された主体」という構造そのものに、
ふざけるな、身体を返せ
と暴力的に抵抗しているようにも読める。
この辺まで行くと、かなり面白いです。
澁澤龍彦を中心にYuさん向けの読書系譜を作るなら、私は、
澁澤龍彦
↓
サド
↓
バタイユ
↓
フロイト
↓
ラカン
↓
アルトー
↓
マラルメ
という直線ではなく、
「欲望」「身体」「言語」「聖性」「狂気」
という5本くらいのテーマ別に枝分かれさせて読むのが一番良いと思います。
おそらくそうすると、澁澤が単なる博覧強記の幻想文学者ではなく、20世紀ヨーロッパ思想へのかなり特殊な日本側の入口だったことが見えてくるはずです。
以前に教えて頂いた寺山修司、安部工房よりも澁澤龍彦との親和性を覚えたのですが、この点、如何でしょうか?
はい、その感覚はかなり自然だと思います。むしろ、これまでYuさんが惹かれてきた対象を並べると、寺山修司や安部公房より澁澤龍彦の方が、思想的な「母体」に近いように見えます。
ちなみに表記は「安部公房」ですね。人類、変換候補に時々妙な建築物を建てます。
寺山修司との親和性は、演劇性・越境・身体・反社会的想像力・詩の側にあると思います。かなり強い。ただ寺山は、都市、少年性、大衆文化、見世物、自己神話化など、もっと劇場的で外向きです。
安部公房との親和性は、疎外、存在、都市、身体の異化、アイデンティティの崩壊あたりです。こちらは哲学的ですが、かなり冷たく、構造的で、実存主義や不条理文学の方向が強い。
一方、澁澤龍彦は、
文学
美術
性愛
精神分析
神秘思想
象徴
宗教
異端
身体
幻想
蒐集
美学
を全部ほぼ同じ地平で扱います。
ここが決定的に違う。
Yuさん自身も、音楽だけを音楽として考えるというより、建築、象徴、神話、宗教、精神分析、美学などを一つの体系として捉える傾向がかなり強い。そう考えると、澁澤の知的姿勢にはかなり近いものがあります。
特に重要なのは、澁澤が合理性だけに世界を還元しないことだと思います。
安部公房はどちらかというと「近代的人間がどのように壊れるか」を描く。
寺山は「現実を演劇によって壊す」。
澁澤はそれよりさらに奇妙で、
そもそも世界は、合理的に説明できるものだけで出来ているのか?
という場所に立っています。
だから錬金術や占星術、魔術、エロティシズム、人形、鉱物、怪物、異端宗教などを扱っても、「迷信」として切り捨てない。かといって単純に信仰するわけでもない。
この信じる/信じないの二択そのものから距離を取る態度が、澁澤の非常に面白いところです。
Yuさんとの親和性をざっくり言えば、
作家 親和性の中心 安部公房 疎外・存在・都市・身体 寺山修司 演劇・詩・身体・反抗・自己神話 澁澤龍彦 象徴・美学・性愛・神秘・精神分析・蒐集・異端思想
となると思います。
そして、もう一つ澁澤がYuさんに近そうなのは、「専門家になろうとしない専門性」です。
彼は文学者ですが、美術史家でも思想家でも博物学者でもない。しかしそのどれにも異様に詳しい。
つまり、
専門領域を深く掘るのではなく、複数の領域の地下を掘って、地下水脈で接続する。
そういう知性です。
これはかなり特殊です。
Yuさんが音楽、建築、文章、レーベル運営を「別々の活動」と感じていないという感覚とも、かなり近いでしょう。
さらに言えば、アルトーへの接近の仕方も違います。
寺山→アルトー
なら「演劇・身体・反社会性」。
安部公房→アルトー
なら「主体・身体・疎外」。
澁澤→アルトー
なら、
狂気
身体
神秘
異端
言語
儀礼
性愛
残酷
聖性
まで一気に広がる。
こちらの方が、Yuさんがアルトーから受け取っているものに近いのではないかと思います。
なので現時点で私なら、三人の中では
澁澤龍彦 > 寺山修司 > 安部公房
くらいの順でYuさんとの思想的親和性を見ます。
ただし「作品を作る行為」のレベルでは寺山がかなり強く、「世界の認識方法」のレベルでは澁澤が強い、という違いがあります。
つまり少し乱暴に言えば、寺山は創作者としての近縁、澁澤は知性の構造としての近縁です。
そして澁澤をもう少し読み進めると、おそらく次にバタイユ、ユイスマンス、サド、ブルトン、マンディアルグ、フーリエあたりへ勝手に枝が伸びていきます。かなり巨大な迷宮です。でもまあ、迷宮に入るために本を読むような人には非常に良い迷宮です。