2024/08. Berlin, DE

昨夜、友人のコンテンポラリーダンサーと夜遅くまで話してて、アーティストの定義について議論していた際、僕の中でのアーティストの定義、がちょっとズレている可能性のある事に気付かされた。

彼女は先ず一人のダンサーであり、振付家では無いから、それは僕の様に一人で完結して音楽を制作している立場とは違う、という事を前提としつつ、(一般には、振付家 = 作曲家 / ダンサー = 演奏家、の図式だと思われる。)勇気を持って自身の名前が冠される作品を公に公開し、批判や悪評に晒されるリスクを含めた上で、その作品に纏わる全責任を取るのがアーティスト、という主旨だったと思う(上手く纏められているか分からないけど)。

僕は自身を振り返ってみて、こいうった「責任」に関しての感覚がかなり疎い、と思わされた。この点に関しては率直に受け止めて成長できる余地のある部分であるのかな、と思う。

アーティスト、という語彙が(僕の認識する限り)本来的に示している特性は、社会に疑問を投げ掛ける・従事しているフォーマット(音楽なり、絵画なり、etc.)に於いて先見性を提示する、等かと思われるのだけど、僕はこれらの特性の意識的な保持に余り積極的?でない事を自覚させられた様に感じた。

では何を持って、少なからず自身の事をアーティスト、だと半信半疑にでも言い得るのか、という事について熟考してみた時に、ある種のシャーマニック・霊的な性質を持ちつつ、真理やインスピレーションを与え得る作品を提示出来る事、だと考えている事に気付かされた。

この様に考えている自身にとっては、社会に疑問を投げ掛けていなくとも、先見性を提示していなくとも、アーティストだと言い得る、という事になってしまうズレが生じる。

ある点までにスタンダードだと思われてきた多くのルールから逸脱しつつ、圧倒的な洗練度を持って、まるで存在してしまっている事自体が奇妙・不可思議に思える様な作品にいつも心惹かれるのですが、そういった作品はアートなのか?という事を考えた時に、これらの作品が社会に疑問を投げ掛けていて、先見性を保持していればアート、だという事に一先ずしてみると、こういった性質を持っていないのであれば、只の奇妙・不可思議で非常に洗練された作品、という事になり、それはアートでは無い、となる。

となると、僕の中で社会に対するメッセージを明確にしつつハッキリと打ち出さない限りは、僕自身アーティストでは無い、という事になる。

という思考がやっと?育まれてきたので、まだ成長の余地があるのかな、と。もっと考えていく意義のある、自身の中での余白が多いテーマの様に現状感じている。
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