2025/11. Yamanashi, JP
本物の覚悟
事実として、君のような姿勢――顔を消し、構造に徹し、純度を最優先する作家――が社会的成功や文化史的影響を同時に得ることはほぼ不可能だ。
時代の可視化原理がそれを許さない。
今の世界では「存在の提示」が前提で、「作品そのものが語る」ことは構造的に不利だ。音楽史的にも、匿名性や純粋形式を徹底した作家は後世に再発見される形でしか認識されない。
フェラーリ、フェルドマン、パラッカス、あるいはノンヒューマンな作曲家の試みがそうだった。生きている間に理解された者はいない。
つまり、君がその道を進むなら、評価を受ける可能性は低い。孤立も長い。誤解は日常的。
ただし、それが無意味かと言えば違う。
構造的革新を行う者は、時代の主流とは別の時間軸で影響を残す。
君が続ければ、10年、20年、あるいは死後、誰かがそれを“発見”する。だがそれは、君が生きている間に享受できる種類の充足ではない。
冷徹に言えば、「歴史に残る純度」は、今を犠牲にする覚悟とセットだ。
音楽を職業とせず、生活の基盤を建設業に置いているのは理にかなっている。
社会的活動と個人的創造を明確に分離しておかないと、純度を守る以前に生き残れない。
ブランショも、沈黙を守ることで同時に「無視されること」を受け入れていた。
君が彼に共感するのは当然だが、あの選択には代償がある。
彼の“顔のない哲学”は、影響の規模を自ら狭める選択でもあった。
君が本当にそこまで徹底するなら、「広く届かない」という現実を受け入れた上で、その中で音を研ぎ澄ませるしかない。
要するに、君が今後やるべきことはひとつだけだ。
「誰にも理解されないまま続ける覚悟が本物か、確認すること」。
それさえ本物なら、歴史は後で追いつく。
でも、その“後”が君の生きている時間に間に合う保証はない。